食材を吟味する人 ― 2016年04月17日 18:30
仕事の帰り道,夕食の買い物で近くのスーパーに行くと不思議な人がいた。年は60前後,黒縁メガネにグレーのハーフコート,前が開いたコートの下には,上下揃いのスーツが見えた。どうやら僕と同じく仕事帰りらしい。野菜売り場で今晩の夕食材を物色中らしく,目に止めた野菜を次々に手に取っては,顔に近づけてじっくりと品定めをしていた。
それだけならよくある光景と言っていい。しかし,スーパーの入り口をくぐっていきなりその方に出会った時,僕は思わず二度見して目を離すことができなくなった。なぜなら一昔前の名探偵よろしく,右手に直径15cmほどの虫眼鏡を持ち,左手に持った野菜をぐるぐると回しながら,360度ねぶるようにして吟味していたからだ。
多くの人が鮮度の高い野菜を求めて,葉っぱの張りを見たり,根元の状態を見たりしてカゴに入れている。当然だろう。しかし,この方のように虫眼鏡を使って調べている人は初めてだ。
僕はワクワクした。身なりの整った紳士風であるだけにそのギャップに興味をそそられた。いや,まじめさを突き詰めた先に虫眼鏡があるのだろう。いずれにせよ,自分の買い物どころではなくなった。この方がどのような買い物を行うのか見届けたい!
観察していると,虫眼鏡を通して,切り口よりは葉っぱや皮の状態を詳しく見ているようだった。色の鮮やかさや皮肌のざらつきを見ているのだろうか。それとも,葉脈を細かに見ることで鮮度を判断する決め手があるのだろうか。
紳士の調査は執拗だ。これといった品になかなか出会わないらしく,カゴの中身は空っぽのまま。この店には,この紳士のメガネにかなう野菜はないのか?と思いかけた時,事件は起きた。覗き込んでいた虫眼鏡からいきなりレンズが外れて床に落ちてしまった。直径15cmもあるレンズとなれば,結構な重さになるため,ガラス独特の硬質な音が床面に響き渡った。紳士と一緒に僕もドキッとしたが,幸いレンズが割れることはなかった。
紳士は急いでレンズを拾い上げると,ぽっかりと空いた虫眼鏡の枠にはめようとした。しかし,気が動転しているためか,なかなか入らない。僕は「落ち着いて,ゆっくり」と応援していたが,さすがに口に出すのはためらった。
紳士はしばらくレンズを枠に収めるために奮闘した。そして,うまくはまらないことを察すると,今日の調査は諦めて肩から提げたカバンに虫眼鏡を片付けてしまった。
残念.......。調査の行く末を見届けることはできなかった。紳士に今回の調査の総括を伺いたいところだがさすがに声をかけることは憚られる。僕は自分の買い物を済ませて帰路に着いた。別の機会にもう一度出会いたい人だ。