UFOキャッチャーを一緒に楽しむ見知らぬ子 ― 2016年12月04日 18:14
柔らかい日差しに包まれた週末の午後。風はほとんどなく,日向ぼっこをするようにじっとしてしていた大気は,14度まで暖められていた。久しぶりに冬のコートを脱ぎ,身軽な装いで外出したくなる陽気だ。平日に溜め込んだ心身の疲れを部屋でだらだら癒していた僕は,羽根を伸ばすために駅前繁華街に出かけることにした。
仙台駅前にある20分100円の立体駐車場に車を止めて,しばらく街を歩く。午前中はほとんど動いてないので,少しでも運動量を上げようと普段より大股で歩く。
アーケード街はすでにクリスマスの装いとなり,通路天井から吊るされた華やかな飾りと電飾が雰囲気を盛り上げていた。店頭の所々でビラやティッシュを配る女の子の服装も,サンタやトナカイ,またはパーティーをイメージさせるきらびやかなデザインになっている。通りをいっぱいに埋めて流れて行く大勢の人たちの表情も心なしか楽しそうだ。

遅めの昼ごはんを食べた後,行きつけのゲーセンに行った。目当てはUFOキャッチャー。ゲーセンに寄るのは駅前に来た時の習慣のようなもので,良さそうな景品があるか一応チェックする。店内を一周して目に留まったのは「すみっこぐらし」のキャラクター枕。手前と奥に棒が二本,横に渡してあり,景品は棒に対して垂直にまたがるように置いてあった。
取れそうかどうか,手応えを確かめるために100円を入れて試してみた。すると,景品の手前部分を持ち上げて,右に少しスライドさせることができた。これは,スライド移動を繰り返し,景品を棒に対して平行にすることで,棒と棒の間から落とすことができそうだ。そこで両替機で1000円分の100円玉を準備し,早速チャレンジすることにした。
100円を入れて右へスライド,また100円を入れて右にスライド...これを繰り返し,800円くらい使った頃には,「そろそろ落ちそう」というところまで景品が移動していた。もうすぐだ。
UFOキャッチャーで景品が落ちる間際は,好奇心を強く掻き立てる。操作主が見知らぬ誰かであっても,今まさに落ちようとしている景品がそこにあれば,ふと足を止めて行く末を見守ってしまうことがある。
この時の僕にも,その瞬間を今か今かと待ち構えているギャラリーがいた。その子はアームが動くたびに,僕の右後ろをちょこまかして,景品のずれ落ち具合を確かめていた。「落ちるところを早く見せて!」という期待のオーラを放ちながら。
時々「あー」とか「落ちそう」と発する声から,小さな女の子ということは分かったが,振り向いてどんな子か確かめることはなかった。それは,その子に威圧感を与えると思ったからだ。目があった時に,「勝手に見るんじゃないよ」という誤解をその子に与えてしまうことを怖れた。逆に僕は,見知らぬその子に最後まで楽しんでもらいたいと思っていたのだ。ギャラリーを意識したらいつも以上に気合が入った。
新たな100円玉を投入口に入れるために視線を右下に落とすと,視界の端にその子がいた。背の高さから,小学1年生くらいだろう。ブルーの瞳に鼻筋の通るくっきりした顔立ち。肩より長いシルバーの髪を頭の後ろで1本にまとめていた。なんと,外人の女の子だった。日本語がぺらぺらの。
興味津々のキラキラした眼差しを受けた景品は,棒の上でかなり不安定な姿勢になりながらも,落ちることを頑なに拒んでいた。女の子が歓声を上げていたので,
「なかなか落ちないもんだねぇ」
と,景品に視線を置いたまま話しかけると,
「もうすぐ落ちるよ。あとちょっと」
と明るい声で励まされた。なかなか面白そうな子だった。
最後の意地を見せて棒に引っかかっていた景品も,その後300円ほどかけて,手前を持ち上げたり,アームで直接押し込んだりすることでやっと落ちた。ギャラリーの手前,小銭がある間に落とすことができてホッとした。落ちそうで落ちない絶妙なバランス状態がしばらく続いたので,女の子も落ちるまでのドキドキやもどかしさを楽しんだことだろう。
取り出し口は機器の下部にある。正面に,上へスイングする透明な1枚扉が付いており,それを押し開けて中の景品を取り出す仕組みだ。しゃがみこんで見ると,透明な扉の先に景品があった。扉を押し込む。ところが...取り出そうとする景品が邪魔になって扉を押し込めない。
景品は長さが45cm,楕円の長径が30cmほどある大きな枕だ。それが,縦に立った状態で落ちてきたので,押し込む扉に干渉してしまうのだ。自動販売機で買ったペットボトルが,縦にはまって取り出しにくくなったところを想像してもらいたい。
これは,一旦枕を横にしなければならない。しかし扉が押し込めなくて開きが少ないため,腕を奥に入れられない。こうなったら仕方がない。枕は押しつぶすことができるので,力任せに扉を押して無理やり開きを確保し,手を突っ込んで強引に枕を横にすることにしよう。
右手で扉を押し,できた開きに左手を突っ込む。窮屈な体勢でしゃがんでいるため右手に力が入らない。そのため扉の開きはなかなか広がらなかった。奮闘していると,先ほどの女の子が状況を察して手伝ってくれた。ちょこんとその場にしゃがんで扉を一緒に押してくれる。おかげで景品を無事取り出すことができた。
女の子は,目を輝かせて取り出した景品を見ていた。なんとも屈託のない子だ。その時,その子の後ろにおばあちゃんが控えていることに気づいた。シルバーの髪を短く切りそろえた上品そうなおばあちゃんだ。女の子が景品をすごく気に入っていたようだったので,この子にあげてしまおうかとも思ったが,今会ったばかりの見知らぬ男からプレゼントを受け取ることは,おばあちゃんにとって気持ちの良いものではないだろうと思いやめた。
人懐こいこの子のおかげで,思い出に残る一日になった。
追記
帰宅後,この枕は自分の部屋の隅に置いていた。しかし,部屋をちょっと空けたすきに,忽然と部屋から消えてしまった。娘がこっそり持って行ったためだ。気に入ったらしい。
この出来事に,小さい頃,子供達に幾度となく読んであげた昔話「ねずみのすもう」を思い出した。「ねずみのすもう」では,おじいさんとおばあさんが,相撲好きのねずみのために餅とまわしを作ってあげる。それを棚に置いておくと,夜中にねずみが見つけて,喜んで持ち去ってしまうのだ。
黙って持っていくところが共通点。でも,昔話のおじいさんとおばあさんもそうだったように,そこにこそ可愛らしさがあり,利用してくれることに喜びを感じるのだ。
長谷川夕著「僕は君を殺せない」の紹介文に煽られる ― 2016年12月25日 00:33
行きつけの本屋が「最近売れている話題の本」ということで,長谷川夕著「僕は君を殺せない」をプッシュしていた。手に取って,裏表紙の紹介文に目を通す。以下,全文引用。

夏,クラスメートの代わりにミステリーツアーに参加し,最悪の連続猟奇殺人を目の当たりにした「おれ」。最近,周囲で葬式が相次いでいる「僕」。
一見,接点のないように見える二人の少年の独白は,思いがけない点で結びつく.....!!すべての始まりは,廃遊園地にただよう,幼女の霊の噂.....? 誰も想像しない驚愕のラストへ。二度読み必至,新感覚ミステリー!!
問題:だれが「僕」で,だれが「君」でしょう?
----------------------------------------------------------------引用ここまで
「驚愕のラスト」「二度読み必至」の言葉が好奇心を掻き立てる。紹介文を一読して,おもしろそうと思った。即決してレジに向かった。
僕は読み始める前に,ページ数と章構成を確認することにしている。読み進むペース配分と読了までの時間をざっと把握するためだ。目次を見る。すると次のようになっていた。
僕は君を殺せないーーーー5
Aさんーーーーーーーー-175
春の遺書ーーーーーーー213
なるほど,3章仕立てらしい。章題からすると,1章がいわゆる「起・承」,2章が「転」,3章が「結」なのだろう。
2章のAさんとは誰だろう。章題になっているところからしてかなりの重要人物だということが分かる。物語の舵を大きく切る役割を持っていそうだ。
3章の「春の遺書」は思い当たる。本屋で立ち読みした時,物語は父の自殺の場面から始まっていた。そして遺書の存在をすでに提示してあった。出だしと終わりに配置されたこの遺書には,物語を貫く大きな謎が含まれていそうである。紹介文にある「驚愕のラスト」はこの遺書に関わることなのだろうか。読むのが楽しみになってきた。
読み始めてすぐに感じたことは文章がうまい!ということ。短い文の積み重ねがリズムを生んで心地よい。そして,場の状況,人物の行動・心理が端的に分かりやすく描写されるので,頭の中にイメージがふっと湧き上がる。情景を思い描く苦労を強いられないために疲れない。
また,キャラクターの描き方が生き生きしている。性格がはっきりと表れる台詞回しと演出。特に主要キャラクターである「僕」とレイの関係性を含めた人間描写は素晴らしい。
さらに物語をどんどん先に進めるテンポも気持ちいい。些末な描写のために一箇所にとどまってグダグダと文章を重ねるようなことがない。「おれ」と「僕」が交互に独白しながら,少しずつ物語の骨格を浮かび上がらせる構成が,文体と相まって物語にリズムとスピード感を与えている。
というわけで,1章は一気に読み終えた。うん。面白いミステリーだ。哀しく,やるせないような気持ちに包まれる1章だった。
で2章の「Aさん」に入る。この章からは「わたし」の一人称視点になっていた。「わたし」とは誰だろう?1章に出てきた誰かか?それとも全く新しい人物が,1章の出来事について語り出すのか?頭の中に?を3つくらい浮かべながらとにかく読み進める。
内容は,「わたし」の回想である。Aさんとは,その回想の中に出てくる全身から肉を削ぎ落としたように痩せたおばさんで,通りかかる人の誰にでも吠えかかる凶暴な犬と市営団地に住んでいた。「わたし」はこの犬とAさんとに関わって恐ろしく,不気味な体験をする。暗く沈んだ雰囲気に包まれたまま2章が終わる。
さて,2章に1章の登場人物は一切出てこなかったが...3章で全てが繋がるのだろうか。ちょっと混乱したまま,3章「春の遺書」に進む。
3章になると今度は「私」の視点になっていた。そして大橋康二郎なるこれまで一瞬足りとも登場していない人物が,あろうことかいきなり幽霊として出てきた。
ここにきてやっと僕は気づいてしまった。「Aさん」「春の遺書」の2作は,全く別の作品だったのだ。(°▽°) なんということだろう。
どうして200ページも読み進むまで,別作品であることに気づかなかったのか。それは次の3つの理由からだ。
一つ目は,表紙裏の紹介文に「表題作他2編を収録」のような案内がなかったからだ。複数の作品を収録する場合,この部分に書くのが普通ではないだろうか。と思って本棚を確認してみると,梨木香歩著「西の魔女が死んだ」等数冊は明記してあった。一方,倉狩聡著「かにみそ」は明記されていなかった。書かれていることが多そうだが,必ずということでもないらしい。

二つ目は,本屋でチラ見した1ページ目の「遺書」と3章の「春の遺書」が同じものと信じてしまったからだ。この思わせぶりな配置はなんだろう。引っ掻けとしか思えない。
三つ目は,「Aさん」「春の遺書」と「僕は君を殺せない」の表現方法に一体感があったからだ。どれも一人称視点であり,叙述トリックの雰囲気がプンプン漂っていた。(春の遺書は結局違ったが...)また,亡霊の影が散りばめられているところも似通っていた。
今にして思うと,書名の「僕は〜」は,確かに目次の一篇目にそのまま書いてあるわけだから,多くの人はこれを見て,「あー3作品収録されているんだ」と思うだろう。
しかし,先の3つの理由で固定観念に縛られていた僕は,この目次を見て見抜くことはできなかった。何しろ,一つの章に書名を冠することはそれほど珍しいことではない。例えば,七月隆文著「ぼくは明日,昨日のきみとデートする」は,プロローグとエピローグを別にして4章仕立てで3章目が書名を冠している。三秋縋著「恋する寄生虫」は,9章仕立てで9章目に書名を冠している。(まあ,書名を冠するにしても,大団円として終わりの章に置くのであって,いきなり1章には置かないと今なら思う...)

さらに罪深いのは,先に紹介した紹介文にある「驚愕のラスト」「二度読み必至」である。僕はこの表現にかなり高い期待のハードルを立ててしまったらしい。「僕は〜」を読み終えた時点ですでに面白かったのだが,後を引く終わり方だったために,この後にAさんと遺書によって驚愕の新事実と大どんでん返しが語られ,さらに楽しませてくれると勝手に思い込んでしまったのだ。
これだけの期待を僕に与えたという点で,この紹介文を書いた編集の方はきっと優秀な方だと思う。しかし,そのせいで「僕は〜」が面白い作品だったにもかかわらず,最初の期待値が高すぎたあまり,相対的に読後の満足度が低くなった気がする。
評価:★★★☆☆
キャラクター文庫とライトノベルと文芸の話 ― 2016年12月29日 21:50
本屋で僕が一番足を運ぶ場所は,小説のコーナーだ。そこでは,買い手の検索性を高めるために,歴史,ミステリー,ホラー,SF,児童小説など,細かくジャン分けをして本が並べられている。
一方,ジャンルとは別に「映像化された作品」や「涙が止まらない」のように,ある条件のもとに本をまとめることもある。買い手の求めに応じたり,買い手の心に希求したりするためには,こうした様々なまとめ方も必要だろう。
そんな中,最近見るようになったまとめ方に「キャラクター文庫」がある。僕は最近目にするようになったが,以前からあるのだろうか?
キャラクター文庫を初めて目にしたときにまず頭に浮かんだことは,いわゆるライトノベルとの違いはなんだろうということだ。ライトノベルも,キャラクター性を強く前面に押し出した小説だ。しかし,本屋にはキャラクター文庫とは別にライトノベルコーナーも変わらず残っていたので,名前が置き換わっただけでないことは明らかだった。
ライトノベルはいくつか読んだことがある。また,キャラクター文庫コーナーにも,既読の本がいくつか置いてあった。その読書体験を思い起こし,その比較から推察したことは,どちらもキャラクターが巻き起こしたり,巻き込まれたりするイベントを気軽に楽しむ「ライトな小説」であるが,キャラクター文庫はライトノベルと比べて文芸要素が強めということだ。
ライトな小説を「ライトノベル」と「キャラクター文庫」そして,その他のものを「文芸」として,小説をざっくりと3つにまとめた場合,僕の主観では,文芸>キャラクター文庫>ライトノベルという格付けになる。
しかし,この分類の基準は曖昧だ。3種のうちどの棚に置くか明らかな本が多数ある一方で,頭を悩ませる本もある。
手持ちの本を分類してみる。まずはライトノベル。

もう,表紙のアニメ調な絵柄からしてライトノベルらしさをアピールしている。また,この書籍名もそれらしい。
「風見夜子〜」の著者半田畔さんは表現力のある作家で,僕はかなり評価している。状況や心理の描写が無駄なく適切で会話が軽妙。そのため,登場人物が生き生きとして躍動している。未来の死体が見える能力を持った夜子の空気を読まない言動と,彼女とともに対象者の死を回避するために奮闘する陽太の魅力が作品のエンジンだ。残念なのは,キャラクターの魅力の高さに比して,ストーリー展開が陳腐なことだ。半田さんはこの作品がデビュー作ということなので,次作に期待している。
「櫻子さん〜」は珍奇な嗜好のキャラクターを作って他と差別化することを第一の目的に作られたような作品。年上女子と年下男子の関係性もそれぞれの性格も全く新鮮味に欠けるが,言い換えれば,安心の設定と言えるもかもしれない。シリーズ化とアニメ化もされているので,固定ファンは掴んでいるらしい。
次はキャラクター文庫。ここにあげるのは実際にキャラクター文庫コーナーにも置いてあったものだ。

まずキャラクター文庫の表紙は,どちらかというとアニメ調というより漫画調と言ったほうがしっくりくるものが多い。見た目の差別化ははっきりと見て取れる。
キャラクター文庫の内容は,ライトノベル同様に特異な世界観や特殊な能力を持つ登場人物が設定されることが多いが,ライトノベルに比べて登場人物が抱える悩みに向き合い,挫折,克服,成長する過程に目を向けようとしている印象がある。そこが先に述べたように文芸よりと感じる理由である。
「天使〜」については以前取り上げたので割愛。「恋する寄生虫」は極度な潔癖症の高坂と,ある理由から不登校になっている佐薙(さなぎ)の物語。社会復帰に向けたリハビリを一緒に行う中で互いに恋に落ちるが,その惹かれ合う理由は果たして自分の意思なのか?...という珍しい視点から紡がれる純愛物語だ。真実に迫る過程のドキュメンタリー風な味付けが緊迫感を煽ってくる。著者の三秋縋さんは,僕が追いかけている作家の一人。薄いベールを被せたような影を感じさせる作品群がこの作家の魅力だ。
で,この「恋する寄生虫」。本屋はキャラクター文庫扱いをしているが,内容的には文芸なのでは?という疑問が起こる。現在の日本を舞台にした物語で,登場人物は奇抜な能力を持っていない。抱えている悩みも現実の社会問題に通じるものだ。ストーリーの軸には,ミステリーのスパイスを散らした上で中心人物の葛藤と成長を据えている。細かなエピソードの積み重ねから心情の変化を描き出す手腕も厚みがある。あえてこの本にキャラクター文庫らしさを見出すとすれば,内容ではなく,女子高生が描かれた表紙くらいのものだろう。
さらにキャラクター文庫の分類の曖昧さを示した作品が,前回取り上げたこの本「僕は君を殺せない」だ。

先日近くのツタヤに行くと,なんとこの本がキャラクター文庫ランキングの売り上げ1位として展示されていたのだ。本作の内容は前回のブログを見てもらうことにして,この本に至っては,内容は言うに及ばず,表紙すらキャラクター文庫らしさが全くない。本作は文芸の位置付けで疑問の余地はないはずだ。
これはどういうことだろう。「恋する寄生虫」と「僕は君を殺せない」から一つの仮説が生まれる。それは,本屋がキャラクター文庫と文芸を分ける一番大きな要素は,内容ではなく出版レーベルによるということだ,
「恋する~」はメディアワークス文庫。「僕は~」は集英社オレンジ文庫。これらのレーベルから出版されたものは,内容に関わらずキャラクター文庫枠に入るのだと思われる。逆に,ライトノベル枠は富士見L文庫のようにそれ専用のレーベルが存在している。他の出版社についても,同様だろうと想像するが,面倒なので調べない。
逆に言えば,「恋する寄生虫」と「僕は~」は,こうしたレーベルから出版するわけだからキャラクター文庫にあった内容の作品を求められたはずなのに,作家さんがその範疇を飛び出して,作品を納入してしまったということになるのだろうか?